新ホームページと新アドレスへの移行をお願い申し上げます。

知半アートプロジェクトは、2013年春より、新ホームページと新アドレスに移行しております。
情報上、この旧サイトを残し、平行して掲載しておりますが
最新のサイト検索、メールご連絡の際は、以下のページとアドレスをご覧くださるようお願い申し上げます。

http://chihan-art.com/

info@chihan-art.com

また、現時点での知半アートプロジェクトの概略については以下の静岡県文化政策課のサイトの記事をご覧ください。

http://sasaeruchikara.jp/?post_type=parsons&p=2437


どうぞよろしくお願いいたします。

2014年2月

知半アートプロジェクト
代表あわやのぶこ&スタッフ一同

「知半庵」が国の登録有形文化財になりました

お知らせが遅れましたが、
「知半庵」は今年2月23日付で、国の「登録有形文化財」となりました。
この一年余、文化財調査のため「知半アートプロジェクト」をしばらくお休みしておりましたが、これにて再開の運びとなり、エキサイティングでおもしろい文化イベントを準備中です。

また、それに伴い、夏には、新しいサイトが始動します。

このブログにて、随時、お知らせいたしますので、ご期待ください。

庵主あわや

庵主 あわやのぶこ略歴

静岡県伊豆の国市生まれ。
中伊豆の庄屋、菅沼家の「知半庵」(国の有形文化財)の奥座敷で生まれる。
大学時代にRI奨学生として、南メソジスト大学芸術学部に留学。帰国後、通訳を経て雑誌記者となり、1979から86年までジャーナリスト・ビザで再渡米。シアトルのThe International Examiner紙、国連協会のスタッフとして活動。在米中、アフリカや香港などに短期滞在した後、帰国。ジェンダーを含めた異文化領域の取材、著作、翻訳を多く手がける。2000年、神奈川の私大の教員に着任し、異文化コミュニケーションを専門として教鞭をとっている。

東京女子大学文理学部英米文学科卒、同大学院現代文化(コミュニケーション専攻)修了。著書、訳書多数。
平成15年より文部科学省検定教科書「現代文」(大修館刊・高校現代国語)、平成23年より「国語」(学校図書・中学校国語)にエッセイが収録されている。

知半庵周辺

「知半庵」は、ペリー総督や米国総領事ハリスも上京の際に通行した旧下田街道ぞいに建っています。すぐ近くには画家の梅原龍三郎が富士のシリーズを描いた大仁ホテル、南へ少し足を伸ばせば夏目漱石太宰治川端康成、市川吉右衛門の定宿があった修善寺の町があります。

知半庵とは

「知半庵」は、もとは菅沼の屋敷の坪庭の名前で、名づけ親は庵主の祖父である菅沼謹吾です。
「知半」とは、「半ばを知るのがよろしい」という意味で、菅沼知半が作りだした言葉です。「極端に生きるのではなく、ないしは極端に生きたとしても、ほどよい頃合を見つけるのが人生にとっての本当の幸せというものである」と。
菅沼知半は自らの雅号を「知半」と称し、「知半庵」で句を詠み、句会を開き、絵筆を取り、花を生け、狩を楽しみ、毎日かかさず、程よく酒を呑んでいました。
新しもの好きであった知半は、いち早く裏庭にコートを作り、袴を履いてテニスをしました。その遊び心と自由な雰囲気を、今もこの家は受け継ぎ持ち続けています。
あわやのぶこが「知半庵」を継ぐ際、庭のみならず、それを家自体の呼称とし、2012年には国の有形文化財として登録されました。正式名称は「 旧菅沼家住宅:知半庵 」です。
なお、玄関に掲げられた「知半庵」の表札は、菅沼知半をよく知る長女・粟屋ひで代(旧姓:菅沼)の夫、粟屋勝輔が彫ったものです。

© IWASA Eiichiro, Chihan Art Project

知半庵では

「知半庵」は450年ほど続いた伊豆の庄屋「菅沼家」の屋敷で、平成初期まで菅沼家の人々が住み続けてきました。六つ間取りと呼ばれる建築構造を持ち、神棚には鯉の水差しが置かれるなど、江戸時代の伊豆の建築様式が偲ばれる民家で、裏庭には孟宗の竹やぶや、一対の石の祠があり、屋敷と千坪余りの敷地を守っています。

© IWASA Eiichiro, Chihan Art Project

知半庵は、旦那衆の遊び場としても古くから多くの文人や芸術家が行き交い、逗留し、昭和初期までは定期的に句会も開かれていました。
伊豆の名僧唯念、映画監督で俳人としても有名な五所平之助、劇作家の久保田万太郎、作家の林芙美子などの文化人が歌を詠み、交流する場でした。菅沼家は、すぐ近くに居を構えていたアララギ派最後の俳人穂積忠や、作家の井上靖の親戚筋にあたります。